冈部元信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/02/09 23:44 UTC 版)
冈部元信 凡例
时代 戦国时代
生诞 不明
死没 1581年4月25日(天正9年3月22日)
主君今川义元、氏真、武田信玄、胜頼
父母 父 冈部信纲
兄弟 正纲、元信
冈部 元信(おかべ もとのぶ、生年不详 - 天正9年3月22日(1581年4月25日))は、室町时代・安土桃山时代の武将。 通称は五郎兵卫。长教、元纲、真幸とも。冈部信纲(冈部亲纲)の子。冈部正纲の弟(亲子说もあり、同族だが亲子兄弟ではないとする说もある)。丹波守を自称し、今川氏、次いで武田氏に仕えた。
父の冈部亲纲は今川氏の重臣であり、今川义元の家督相続に重要な役割を果たした。元信自身も远江および三河の平定に大きく贡献した武将の1人。天文17年(1548年)の小豆坂の戦いで戦功をあげた后、尾张の鸣海城在番となる。
永禄3年(1560年)、桶狭间の戦いでは鸣海城を拠点に织田势と戦いを缲り広げた。主君・今川义元が织田信长に讨たれた后も抵抗し続けるが、主君の首と引き换えに开城。骏府へ帰还する途次、戦功の无いまま帰るを良しとせず刈谷城を攻撃、水野信近を讨ち取り城を焼き払った。
永禄11年(1568年)、武田信玄の骏河侵攻によって今川氏真が骏府を追われると降伏して武田氏に仕え、高天神城の守将に任じられる。
天正9年(1581年)、徳川军は横须贺城を拠点に高天神城を攻撃し开城させた。この际に冈部元信は敌军に斩り込み、讨死をとげた。